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神原古墳群
五世紀中ごろから後半にかけて作られた。
山麓部に15基の横穴式の極小型石室のものが存在。
ただし、国道53号線バイパス、野口への道路工事などにより3基消滅。
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牛頭天王碑
神原の山中にある。「武塔神(むとうしん)」および「スサノオノミコト」とも。
牛頭天王は、平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきた。農民にとっては虫追いの神様でもある。蘇民将来の説話にも登場している。
地元の古老によると、昔は免田があって、この碑の前で盆踊りをしていたという。
[蘇民将来説話]
旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
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神原荒神
下神目下の猛嶮淵の下手、野伏尾川にかかる滝見橋より上流、志呂神社の鳥居をくぐった先(北側)の左丘陵斜面にある。社殿は志呂神社境内に合祀。現在は礎石の上に自然石の塔が立つ。
以前、10月27日の夜に、野伏尾、宮ノ下、宮ノ前、神原、鳥羽の氏子によってとり行われていた。
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金玉池
小さな池。昔、大人(おおひと)が歩いていて金玉が当たって凹んだ場所という。大人は三穂太郎だといい、那岐山から京都に行く時、金玉が当たってできたという。三穂太郎は、三歩で京都まで行ったのでその名がある。 |
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伊勢畑城址
常山にある。中世1441〜44年に伊勢国長野の一党が常山にあった志呂神社を現在の地に移し、築城。城主は長野一族の伊勢守藤原兼光。その後、1492年〜1520年に赤松左衛門左衛門尉源家盛が在城。
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下風城址
下神目尾城にある。中尾山城または尾城とも呼ばれる。山頂は東西南北共に約200メートルの段。塁濠の跡がある。赤松家の城。
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伏山城
下神目伏山にある。山頂(天狗山)には小段が3か所あるだけで、居住するほどの面積はない。伊勢畑の属城。 |
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寺子屋跡
教師は志呂神社の神主日野益雄氏。読み書き等を教えた。安政から明治にかけてあった。
法行寺跡
神原の地に跡がある。通称じしょう坊。これは田淵定海という修験道の山伏が諸祈祷にあたっていた堂。後継者がなく廃寺。建物は昭和15年ころまでは存在。氏の墓地に堂のものと思われる立派な瓦がおいてある。
神原大師堂
神原の旧志呂神社裏参道の入り口に祀られている。第88番の札所。現在の堂は失火により再建されたもの。中に弘法大師を安置している。また、堂の右側には宝篋印塔が祀られている。
志呂宮の道標
神原橋の下手にある。中央に「志呂宮」、その両側に「ここより六丁(約600メートル)「右ゆげ遍」とある。また、辻畝の志呂宮鳥居を下がったところにも道標がある。中央に「志呂宮」、その横に「左にし川遍」とある。 |